雨水ブログ「旅の珈琲・奄美大島編4」
どうも雨水です。
先週は珈琲出てこなかったので早速前回の続きを。
で、島の中をぐるぐるドライブして回って戻りました。
民家の軒先で精算してると、ちょっとお茶でも飲んでいきます?と民家のお婆さんに言われたので、遠慮なしに玄関の上がりに座ります。
お茶と珈琲とどちらを?と聞かれ、すかさず、珈琲を、と。もしかして面倒かな、とも思いましたがまあいいやご馳走になろうと。気を遣ってくれたのだろうし。
で、お婆さんと海を見ながらこう、ぽつりぽつりと世間話をしたのです。
寅さんの撮影あったでしょ?と聞くと色々当時のことを話してくれましたね。山田洋次監督一行がどうしたこうした、とか。それはそれは書ききれませんよ。
でもやはり渥美清さんの姿はあまり見られませんでしたね、とのこと。
本を読むと、病身ゆえファンサービスされるのも非常に困難だったとか。
そんなことをぼんやり珈琲を飲みながら話してくれたのです。
病に冒されて、立っているのも辛い時に自分の仕事を、多くの人に影響を与えてしまうものを作るということは、一体どんな気持ちなんでしょうか。なぜそれを成し遂げられるのか?どんな心の持ちようならばそのようなことができるのか。
同じように病、もしくはそれと同様の苦痛を一身に抱えながら珈琲を淹れる、そのような人物や店の話は聞いたことはありませんが、もしいらっしゃるならばその珈琲は一体どんな味がするのか?飲む人にどんな思いを抱かせるのか。
これは今になって、その加計呂麻でのことを思い出して感じたことです。
あのお婆さんが入れてくれた珈琲、おそらくインスタントだったのでしょうけども。
その時はぼんやりと旅の気分と寅さんのことを考えて、ただ美味しく飲んだのでしょうけど、今になってみてじわじわと、こう胸の奥に広がっていく判然としない美味しさがあります。
その漠然とした、美味しさと呼べるだろう記憶の中の甘さが、誰もが避けられない老いへの不安なのか、はたまた期待なのか、それは分かりませんが、そのよく分からないものが胸の奥を時折かすめて、日々抽出する珈琲にすっと染み込んだりしてるのかもしれません。
何だか抽象的な話になってしまいました。
みなさんの中にも、ある時飲んだ珈琲が後になって、あぁ、あの時はそれほど何とも思わなかったけど今になってみると美味しかったなぁ、とかしみじみ思ったことがある方もいるのではないかと思います。
記憶の中で、時間がたつことによって熟成された美味しさが引き出される、そんな珈琲を意識的に作れたらなぁ、と言う気もしたりします。
加計呂麻の話はこんな感じで。
最後に。
また本島に戻り、泊まった宿にて。記念に撮影させて頂きました。
奄美大島編 完
http://coffeeusui.hatenablog.com/entry/2016/11/20/110714